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特集
明智光秀の娘 佐保姫伝説を追う #3
一、はじめに
大河ドラマ「麒麟がくる」で注目を集める明智光秀。そして猪名川町に伝わる光秀の娘、佐保姫の伝説。いながわベース春号では、八上城城主波多野秀治の息子、「貞行」との結婚を決められ、お互いに愛し合う仲となっていた佐保姫であったが、秀治が従属していた織田信長(光秀の主君)を裏切ったことにより対立し、その結果として叶わぬ恋を悟った佐保姫は猪名川に身を投げた。そんな悲運の物語を紹介し、その歴史背景や伝説に関連する地域の紹介などを行った。
そして今回は、光秀による丹波攻略の経緯や時代背景をもう一歩踏み込んで調べ、光秀や丹波の豪族の足取りから佐保姫につながる手がかりを探ってみた。丹波攻略の舞台であり、佐保姫伝説につながるもう一つの舞台である八上城とその周辺に、そして伝説にある「貞行」が佐保姫に別れを告げに訪れたという三蔵山城に実際に足を運び、現地を調査した。そして希望を失った佐保姫が身を投げたという姫ヶ淵の水中調査も行った。
そこで出会った佐保姫につながる手がかりとは一体・・・
そして佐保姫は実在したのか・・・
二、光秀が丹波を攻略した経緯
光秀が主君信長から丹波攻めの命を受けたのは天正三年(1575)四月のこと(第一次丹波攻略)。当初波多野一族は織田信長に従っていたが特に信長方として動いていた訳ではなかった。同年十月光秀は軍を率いて丹波に入り、抵抗する赤井直正の籠る丹波黒井城を包囲する。当初すぐに落ちるだろうと楽観視していた光秀であったが翌天正四年(1576)一月突如味方の波多野秀治が裏切り明智軍に襲い掛かる。突然の攻撃に明智軍は敗走を余儀なくされ近江坂本に退くことになる。
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天正六年(1578)三月、光秀は再び丹波出陣の命令を受け、宿敵となった波多野秀治の居城八上城の包囲に取り掛かる(第二次丹波攻略)。そして約千人が籠る八上城は明智軍の包囲戦に耐えるが、約一年後の天正七年(1579)六月、遂に波多野秀治は開城を受け入れる。秀治兄弟は捕縛され京を引き回された挙句、安土にて兄弟共々磔にされ殺されることになる。以上がおよそ史実における八上城の戦いの経緯だが、この中には伝説にある佐保姫、貞行という名前は見当たらなかった。
しかし今回新たな発見があった。八上城落城時、秀治の次男「甚蔵」が乳母に連れられ落ち延び、後に篠山藩に仕え、その子孫が今もそこに住んでいるという。佐保姫につながる手掛かりになり得るかに期待が高まった。
三.伝説当時の時代背景
第二次丹波攻略の少し前、大和では松永久秀が、また播磨三木では別所長治が信長軍に反旗を翻していた。また摂津伊丹でも信長家臣荒木村重が謀反を起こし信長本隊直々に攻められ城下領民全て焼き払われている。丹波篠山も播磨三木、摂津伊丹も猪名川町にほど近い。それぞれの合戦は信長が畿内(天下)をおさえる上で重要で、それぞれ非常に悲惨極まりないものとなった。
また天正七年(1579)四月からは、信長の嫡男信忠、四男信澄の約一万五千の軍勢が能勢郡(現在の能勢・豊能町付近)の諸城を攻め落とし、ついに三蔵山の佐曽利城も降伏している。佐曽利城とは前号でも紹介した三蔵山城のことで、楊津小学校の南西に位置する。能勢から猪名川にかけ一万以上もの軍勢が往来したことを考えると、その状況がどれだけ恐ろしいものであったか、また、当時の猪名川町域も正にその悲惨な戦場で明日をも知れぬ状況であったことは想像に難くない。各村々から当時の支配者であった能勢氏や塩川氏、佐曽利氏の徴兵として駆り出された者もいただろうし、田は青田刈りに合い、食料は略奪、見つかれば乱暴されたり連れ拐われたり売り飛ばされた者もいたことだろう。このような想像を絶する状況の中で、伝説は生まれたのかもしれない。
伝説が生まれた当時の猪名川町域は、山下城(川西市山下)を本拠とする塩川氏により支配されており信長方の支配下であった。丹波攻略の指揮官、明智光秀の関係者が居ても不思議ではないが、なぜこの猪名川の地に光秀の娘がいるのかと言われると、決定的な理由や由来はまだ見つけられていない。
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四、「波多野貞行」を求め丹波篠山へ
それでは恋の相手「波多野貞行」とはどんな人物なのだろうか。そもそも実在するのか。我々は波多野一族が治めた丹波篠山市に向かった。
〜もう一つの伝説の舞台、八上城へ〜
まず、訪れたのは波多野氏の居城で、逃げ込んできた農民を含め約千人が一年あまり明智軍の猛攻に耐え続けた八上城。猪名川町からは県道十二号(主)川西篠山線を直進し、篠山盆地に入ったあたりの左側にあり、猪名川町からは車で約三十分位の場所にある高城山山頂に築かれた堅固な山城である。現在は整備されたハイキングコースとしても活用されており登ってみると八上城の堅固さを今も伝える数々の曲輪(城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した平坦な区域の名称。守備を担当する兵たちが駐屯した。)など城の防御設備が確認できた。そして主郭である頂上からは、篠山盆地を全周見渡すことができ、城を囲んだ明智光秀の本陣はもちろん、その他の小山や丘などに配置されたであろう明智軍の陣跡も確認でき、当時の城攻めの情景が交差した。ここに千人もの人が一年間も籠ったのかと想像すると、現代の我々では三日と居られない状況であったことを改めて痛感した。
〜波多野氏の末裔が暮らす味間地域〜
次は波多野氏の末裔が今も暮らすとの情報を元に、丹波篠山市内の味間地域へ向かった。
「定吉」は「貞行」のこと?
丹波篠山市味間は、波多野秀治の二男甚蔵(後の波多野定吉)が八上城から落ち延び暮らした地域だという。八上城落城時、甚蔵は三歳で乳母に抱えられなんとか落ち延び、味間にある文保寺で修行し三十歳で還俗、後に篠山藩に仕え、味間地域の代官となったそうで、現在もその墓が歴代子孫の墓と一緒に存在する。ここで我々は一つの仮定に辿り着いた。
仮説①「さだゆき」と「さだよし」の聞き間違えでは?
歴史上の人物の中ではよくある話である。佐保姫が猪名川に入水した時期に三歳ということになるので、年齢が若干合わないが、当時の戦のすさまじさから波多野家を残すため虚偽の年齢が伝わったとも考えられる。現在も味間地域で暮らす波多野氏末裔の方に話を伺ったところ「さだゆき」のことを聞いているのに、「さだよし」のことを話し続けるのを目の当たりにした。どこかの時代でも同じような間違いが起こったのかもしれないのではと思えた。
また当地では波多野を「はだの」と読み、活躍した祖先波多野秀治公を現在もなお、子どもからお年寄りまで敬っている伝統を感じることができた。余談だが、明智家の家紋である「ききょう」は絶対に育てないとのことだった。
「秀香」は「貞行」のこと?
さらに我々は、丹波篠山市内や市立図書館などを調査する中で、貞行の可能性のあるもう一人の人物に辿り着いた。秀治の弟として、酒井氏から波多野家に養子に入った波多野秀香(現丹波市大路城の二階堂家を継ぎ二階堂秀香に、そして波多野秀香に)である。秀香は定かではないが、信長の命令により二人の兄(秀治と秀尚)と共に磔にされたとも、八上城に残り最後まで抗戦し城兵と共に討ち死にしたとも伝えられている。この秀香の生家である酒井氏は桓武天皇の流れをくむ地域の名家であるが、実はこの酒井家の名前の通り字が「貞」なのである。(※通り字とはその家で代々名前につける字、平家「盛」、織田家「信」など)ここでもう一つの仮説が浮上した。
仮説②「貞行とは秀香が波多野家に養子に来る前の名前、酒井貞行だったのでは」
そして、養子に入り、波多野家の名前の通り字「秀」をもらい秀香と名乗ったのでは。実は年齢も、秀治と親子くらい年齢が離れていたと思われ、兄の秀尚と共にすでに光秀との戦に及んでいることから、おそらく元服して数年経ったあたりの、二十歳から二十五歳くらいではと思われる。もしそうであるなら、佐保姫の恋の相手としてはでき過ぎと感じるほど適齢といえる。
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五、佐保姫が暮らしたとされる「三蔵山城」へ
猪名川町中部の木津地区からお隣の宝塚市にまたがる三蔵山。この山頂には三蔵山城があった。そして佐保姫もここに居を構えたと伝わる。地元では、高三蔵(411m)と低三蔵(373m)と呼ばれ親しまれ、その位置関係から三蔵山城は、一城二郭(主郭が二つある)の構造ではなかったのかと想像できる。
楊津小学校の南の林道から山道に入り、約一時間登ると人工的に石が積まれ、明らかな堀跡がわかる山頂付近に到達。さらに登り、山頂付近は直径約四十mと二十mの楕円形の平坦地でかなりの広さを感じた。ここを主郭として、東斜面や北斜面には、大がかりな堀や曲輪が目視でき、さらに人工的に置かれた門の役目をする二つの巨石も確認できた。通路はわざと曲げられ敵の侵入を防ぐ「虎口」という構造で、ここで敵を食い止めることを意識したものだ。道のりの険しさからとても人が住んでいた場所とは思えないが、有事の際に逃げ込む防御の戦闘施設であることは明らかだった。
次に尾根づたいに低三蔵に向かうと、その道中には木津地区から万善地区(道の駅周辺)付近を一望できる場所にある巨石を発見。見張りの役割と同時に祈りの場所など宗教的な要素もあったことが想像できた。そして高三蔵から約二十分、低三蔵山頂に到着。ここも広い平地になっており、高三蔵と連携していたのではと思われた。佐保姫もここから、実り豊かな猪名川町域を臨んでいたのだろうか?
六、悲劇の舞台「姫ヶ淵」
次に、佐保姫が悲恋の末、入水したとされる猪名川町万善のスポーツセンター南側にある姫ヶ淵を調査。地元の年配者の話では、昔は飛び込んだり潜ったりしてよく遊んだ場所だったという。また潜ると大きな横穴があり、そこは佐保姫の屋敷の井戸と繋がっていて、「その穴に近づくと引き込まれる」と親から教えられたとのことだった。この横穴、実は脱出口だったというのだ。
我々はその横穴を確認するため水中の調査を行った。川の水深は二〜三m。水質はやや濁っていたが潜ってみると確かに水中の岩の間に割れ目のような箇所を見付けた。さすがに年月が経っており危険を伴うことから、その割れ目から侵入することはできなかったが、伝わる話などからも、おそらくここが話に聞く佐保姫の横穴ではないかと思われる。それほど守るべき大事な客人がこの周辺に住んでいたのだろうか。
七、まとめ
今回の調査でも決定的な佐保姫実在の証拠は発見されなかったが、仮定も含め、もしやと思えることにはたどり着いた。それらも決して断定できるものではなく希望的な解釈抜きでは成立しない。とはいえ伝説の中の細かいことは後々の肉付きだとしても、伝説の時代背景と史実とはおよそ一致しているようだ。今のところ確たる証拠はないが、佐保姫伝説はなんらかの形で本当にあった話ではと感じている。
八、歴史を探求することは
この情報誌が配られる頃、大河ドラマ「麒麟がくる」では光秀による丹波攻略の辺りではと思われる。大河ドラマには映り込まないが、その当時の猪名川町域でも確実に我々の先祖が生きていたことは間違いない。佐保姫伝説につながる出来事もドラマの裏側で起きていたのかもしれない。今放送されている大河ドラマのお駒と光秀の間に女の子が生まれていたなら佐保姫実在もあり得るかもしれない。そんなことを考えながら視聴するとドラマの面白みも倍増するように思う。
また「貞行」ではと思われる仮説の一人である「秀香」の末裔に繊維製品メーカー「グンゼ」の創業者となる波多野鶴吉氏がいる。丹波攻略における八上城の戦いも後の時代や社会を形づくることにつながっている。佐保姫の血筋も、もしかしたらどこかで繋がっているのかもしれない。
歴史を辿ってみると思いがけないことに数多く出会う。ちょうど佐保姫伝説の頃、天下人織田信長が実際に我々のすぐ近所で鷹狩りをしていたことや、織田の大軍が我々の住む猪名川町域にも来ていたことが現存する史料から確認することができた。光秀はその足取りから伊丹の荒木攻めの三田の陣から丹波八上城に向かう途中、我が町を通ったのかもしれない。有名武将だけではなく我々の先祖もそこで戦い、たくましく生き抜いたに違いない。山城に登ってみると昔の人はこんなにも急峻で奥深いところで戦っていたことや、山が民衆生活のライフラインであったことにも気付かされ、驚きを隠せない。今は便利な化石燃料が普及し、山に行く必要は無くなり、近くの山々はどこもかしこも荒れ果てている。ただ単純にこれではいけないと納得できる。
昔の人が何に苦しみ何を求め何に苦労したかを見返すと今に通じるヒントのようなものに気付かされる。四百年以上も前の物語、佐保姫伝説が今に語り継がれていることを単なる作り話としてではなく、何か大きな意味があると捉えたい。またそうやって昔を振り返ることが、これからの自分たちを、自分たちの町をどうしていくのか真剣に考えるきっかけになる。何より郷土愛というものがそこに生まれる。今回の調査では佐保姫の結婚相手とされる波多野貞行について二つの仮説にたどり着いた。また町内での調査では、伝説として伝わっていた佐保姫屋敷からの脱出通路という横穴はハッキリとはしなかった。しかしこれからも引き続き腰を据えて探求していきたいと思う。
そこで読者の皆様にも情報提供やご意見をお願いしたいと思う。我が家の蔵に眠る古文書であるとか、子どもの頃亡くなったおじいちゃんがこんなことを言っていたとか、あるいはそれはこういうことではないのか、また専門的調査協力の申し出等々、どんな些細な事でも「いながわベース」まで連絡をお願いしたい。
地元の謎を追い求め、その過程で何かと出会い、何かを知り、何かを学び、そしてより良い地域やより良い未来を創って行くことにつなげること。それは我々「いながわベース」の目指すところである。
次回予告!
今回の調査中思わぬ所に「佐保」の文字が。光秀の母の名前は「お牧の方」とよく耳にするが実ははっきりした根拠は無いようで、明智家系図の中に光秀の母が「美佐保」とあるものがあるらしい。早速調査を進めたいと思う。一緒にこの謎を追う仲間も随時募集中!
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