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江戸後期に明満上人と崇められる90歳の6尺(約1.8m)の老人が 猪名川町に約3か月の滞在中、32軀以上の仏像を残した。

あなたは木喰仏、特に自刻像を見たことがありますか?

~果ての知れざる旅の空。-「いつまでか はてのしれざる たびのそら いずくのたれと とふ人もなし」
(絵はすべて、創作紙芝居作家で伏見台在住の満永小百合さんに描いてもらいました。)

「木喰さん」と言われている木喰上人(明満仙人)。
出家した後,木食戒という戒律で火を使わず木の実,山菜のみを食して
修行する僧のことを木喰上人と言う。
記録によると一般的に室町~江戸時代の成人男性の平均身長(154~6cm)の当時に、
90歳で身長6尺(約1.8m)の人が生存していたと言うだけでも驚くとことだが、
仏像の裏書の日付を見るだけでも、猪名川町に3カ月以上滞在した間に
少なくとも32軀(仏像を数える単位は「軀」)を作成し、
千体造仏の完成の暁、二千軀を目指したと言われています。
あなたはそれを信じて想像できますか。

猪名川町での作品は最晩年の円熟した作品で、
その中でも上阿古谷の毘沙門堂、万善にある天乳寺、北田原の東光寺には
それぞれ、その緩やかにほほ笑む自刻像が安置されていて、
“ほほえみ仏”とも呼ばれています。

筆者含む昭和中期世代の人たちにとって、
お寺や神社は学校帰りのデートスポットでもあったので、
本堂も気軽に仏像の前に佇むことができる思い出として残っていると思う。

そういう私も、近くのお寺は気軽に入室できて、
お堂の階段に並んで座って手を繋ぎ合ったり、
本堂の中は厳かながら仏像に見守られて二人の誓いをたててみたりと、
甘酸っぱい記憶が蘇ってきます。
木喰上人の木刻像がその当時の私が通っていた寺にあったなら、
また違った雰囲気で当時の彼女と友情を育んだことでしょう。
また思い起こせばお寺の境内が子ども達の遊び場であった時代も懐かしい。
今の子ども達は神社の境内を身近に感じる機会はあるのであろうか。

天乳寺の木喰仏自刻像は何とも言えない包まれるような、
優しいほほ笑みから受ける印象は特別なものがある。
また脇に控える2軀の得大勢至と聖観世音大菩薩像は
一本の木を半分に割って作られているというこだわりもあるようだ。

多分、木喰上人の生きた時代も現在も、
彼の刻んだ木彫の顔から受ける信頼度は変わらないものがあると信じます。
大人の男女・夫婦、他に子ども達にとっても、
木刻像の面持ちは人間味が豊かな顔立ちで、愛らしく、
仏像の手の仕草などをみても趣旨伝わる具体的かつ親近感があり、
仏像に残る傷や落書きなどを見ても、
当時の生活や風俗の色々な歴史を残す要素として、
いたずらや不敬を感じない。
身近に仏像を愛でながら、今も変わらぬ心豊かに和ませる存在を感じます。

それだけに私は、町民には猪名川町の木喰仏を実物として一度見てほしい!

左から天乳寺自刻像、同裏書、毘沙門堂自刻像

ほかには東光寺には、人間が死んで三途の川を渡る途中に、
極楽へ行くか、地獄へ行くか、今までの生きてきた間の生き方を考慮して審判する
初七日の秦広王。十四日目の初江王。二 十一日目の宋帝王。
二十八日目の五官王。三十五日目の閻魔王。四十二日目の変成王。
四 十九日目の泰山王。百日目の平等王。一周忌の都市王。
三周忌の五道転輪王と、三途の川で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の葬頭河婆像。
金砕棒を持つ白鬼など十二体の木彫と自刻像が座している。
中でも葬頭河婆像の豊満な胸元の表現はとても印象的です。

もしあなたの祖父母やご両親が亡くなられた時にこの仏像を見ていたら、
一週間ごとにその仏像の顔を思い出すのではないでしょうか?

また現在、息災や安産に御利益が欲しいという方には、
毘沙門堂に七仏薬師(一体は盗難にあう。)があり、
善名称吉祥王如来。金色寶光妙行成就王。無憂最勝吉祥王。
薬師 瑠璃如来。法界雷音如来。法界勝慧遊戯神如来が安置されています。

そんな国宝的なものが身近にあることを、
外国に行った日本人が日本人としてのアイデンティティを問われるように、
猪名川町民のアイデンティティとして持ち合わせてもらいたいものと感じています。

<木喰さんってどんな人>

さて、木喰上人は享保3年(1718年)現在は山梨県身延町に生まれ、14歳で家を棄て、江戸へ。
ちなみに銀山の記事で出てきたエレキテルで有名な平賀源内は享保13年生まれ。

江戸時代も100年過ぎて安泰化した徳川吉宗の頃に、それなりに出世して役人にもなったようですが、
ある真言宗のお坊さんに感化され、現状からの飛躍を求め22歳で真言宗に入門、
45歳で木食戒を受けて、93歳で没すまで戒律を守り続けながら、
55歳からは人々の為に加持を行い病苦を救おうと、全国を巡り始めます。
頼まれるままに彫像を残し、一説に猪名川町に於いて1000軀を満願し、
その後も2000軀を目指したと言われていました。

本人の記していた宿帳によると旅は5期に分類でき、最後の享和3年からの記録や、
仏像の裏書の日付では文化4年(1807年)3月26日から6月22日、
その前後に猪名川を訪れて離れています。その3年後の文化7年(1810年)没。

また容姿についても、文化4年の北摂巡礼の折に十六羅漢由来記には以下の人物像として伝記史料があります。
「容姿を視る顔色憔悴して鬚髪雪の如くしろし、乱毛螺の如く垂る、躬の長六尺なり、
壌色の衣を著、錫を持って来り立つ、異形の物色謂ひつ可からず、実に僧に似て僧に非ず、
俗に似て俗に非ず、変化の人かと思ひ狂者の惑ふかと疑う。

~寝る間も惜しむ千体への作仏。

とあり、これを書いた人にとっての第一印象は、疲れ顔で白髭ぼうぼう、
長髪で髪は乱れ、身長は180㎝を超え、汚れた服と錫杖の容姿は、
あまり良い印象では無かったようです。

しかしながら猪名川町などでも約3か月を同じ場所に留まり、その地の民に仏像を残しているのを見ると
皆からすぐに受け入れられ、そこそこ長居をした地域もあったことと思います。

~村人の心丸める木喰仏。-「まるまると 丸くまるめるわが心 まん丸丸く 丸くまん丸」

~寺子屋の人気者は木喰仏。

<見つけた人は柳宗悦>

まず木喰仏を語るには、昭和の名作椅子「バタフライスツール」で有名な柳宗理の父でもある、
柳宗悦(1889~1961)がキーパーソン。
河井寛次郎、濱田庄司などと1925年以後唱える民芸美術運動を始める。
今では一般的に使われる言葉としての「民芸」とは民衆芸術の略で、宗悦たちは1924年甲府で木喰仏に出会い、
その民芸的な美に魅かれ、偉大なる感動を覚え世間に広く知らしめた。
その後、精力的に全国を駆け巡りながら木喰上人の資料を収集し、木喰上人の自筆本7冊と5つの歌集に記された
500種の歌も発見した人である。

<猪名川での発見者>

後に猪名川町で木喰仏を発見した粟野頼之祐も青山学院時代に柳宗悦とも親交があったようで、
木喰仏についても幾らかの知識があったものと思われる。
著書「北摂における木喰上人」において、柳宗悦の多数の資料を参考としたので、
宗悦が研究発表後40年を経ても、最初のページに「この書を柳宗悦先生の霊に捧ぐ」と記している。

~東光寺の立木仏。

粟野頼之祐(1896~1970)については、猪名川町島出身で西洋史学者。昭和2年渡米、
ハーバード大で、碑文およびパピルス文書などの史料にもとづく古代ヘレニズム史の研究が専門。
ボストン美術館にも勤務。本人談では昭和14年に帰国、猪名川町に戻る。
その後、昭和23年宝塚に転居し北摂郷土史学会を結成。昭和26年関西学院大教授となり、
定年まで勤めてあげている。

<世に知られる経緯は>

昭和26年7月27日、東光寺にて十王尊他15軀(自刻像1軀を含む)と、生木の樫に彫られた
子安観音像1軀(明治40年頃に木は枯れていた)を発見。その後、個人宅から「恵比寿大黒像」1軀、
同年8月28日、上阿古谷毘沙門堂で自刻像1躯と他6軀、天乳寺で自刻像1躯と他2躯を発見。
合計27軀だが、木に彫られた子安観音像を除く26軀を同年9月10日発行の「北摂郷土史学新聞」に
「北摂における木喰上人の足跡-仏像26軀発見」として記し、柳宗悦に送る。

昭和27年8月9日、東光寺焼失(1軀焼失)の折に13軀が救出された。昭和30年9月、東光寺再建。
よって町内に現在は子安観音像を含めて25軀が残っている。と当時は思っていた。

ところがその後に、当時造り酒屋であった家に酒造りの神である松尾大権現猗像を残していたのが見つかり、
興味深いのは、文化4年7月4日の日付があるこの像だけが「日本二千タイノ内」とあり、
猪名川の地で1000軀満願成就したのではないかとも受け取れます。
それにより町内に残る仏像は現在26軀です。

<木喰さんのどこがすごいの?>

粟野頼之祐はいくつかの特筆すべきことを著書に記している。

まず、45歳では僧名「行道」と自らを名乗り、76歳で「五行菩薩」、89歳から「明満仙人」と名乗るようになったのだが、
1000軀像発願は80歳の時からという。
従って猪名川町に残る彫像はすべて「明満仙人」と署名されている。

また、彫像の制作日から見て行程は、丹波から南へ天王を越え、森上に出て、
猪名川町・民田から上阿古谷に入っている。
その後、日付は入り混じるが天乳寺、東光寺のルートで彫像を残したと考えている。

ヘレニズム時代の研究が専門の粟野は、江戸末期における仏像は繊細な洗練された
「永遠の静寂」と表現するのに対して、初期ギリシャ(ヘレニズム)彫刻にも現れる、
口に微笑(アルカイックスマイル)を浮かべ、原始的な力量感と生命力が湧き出る技法と言うのだが、
最近では猪名川木喰会や各地の木喰仏の研究者は、いわゆる「モナリザの微笑」とは
一線を介して「木喰仏のほほえみ」はアルカイックスマイルではないとの解釈を唱えている。

<何となく身近な木喰明満上人>

木食戒とは、火食を避け肉食を採らない。
木の葉や木の実、時として五穀や蕎麦粉を生のまま食すという戒律で、木喰明満仙人は身長6尺と大柄で、
塩も食さず93歳で没すまでの約50年、健康と精力を保ち続けた。

ただ彼は酒は禁じなかったようで、また入湯も養生法の一つとして日誌にも記載が目立つ。
寝具も使わず、一年中、衣1枚で過ごしていたと記録に残っている。

猪名川に残る仏像の内、3軀は上人の単独作だが、他は加勢大工の与清の花押も加わり、年齢も上人90歳、与清60歳と記入されている。

<※最後に木喰上人の人生苦慮を感じられる俳句>

行き暮れてはっと(法度)の寺に乞いければ和尚の心闇路なりけり

一宿を願うてみても庄屋様はっと(法度)はっとで一石六斗

日は暮るる山河超すも何やらむ雨風吹雪凌ぐつらさよ

長旅や心の鬼は責めるともただ堪忍が路銭なりけり

木喰の衆世済度はなにやらむただ堪忍が修行なりけり

はずかしや腹の立つのを堪忍は修行の道のひみつなりけり

木喰も道に迷う腹はへるこよいはここに空(から)の断食

いつまでかはてのしれざるたびのそらいずくのたれととふ人もなし

木喰のけさや衣はむしろこも着たりす(敷)ひたり野宿なりけり

木喰のけさや衣は破れてもまだ本願は破れざりけり

木喰の姿かたちをながむればさながら稲のかかしなりけり

木喰も悟りてみればしゃるこうべよくよく見れば元の土くれ

木喰の裸の姿ながむればのみやしらみの餌食なりけり

木喰もいずくのはてか行きだおれいぬかからすのゑじきなろとも

ほとけとも鬼ともじゃ(蛇)ともわからねどなににならふとなみあみだ仏

ろくはら(六波羅)がみつ(密)つのことはさておいてひとつのはらがひもじかりけり

木喰のかたみはなにかなむあみだかえすがえすもなむあみだ仏

いきなりにころりまるまるそのよさは寒さ忘るる茶わん酒かな

木喰も悟りのまねかあほうものよくよくみればばかのごんげん

木喰の心のうちをたづぬれば阿字観ならでたのしきはなし

木喰は書物はよめず字は書けずいつも恥辱を恥のかきやり

木喰にみなだまされてたもとから一文ぜにをはらりはらりと

たふと(尊)ひ人とたずねくるたずぬる人はなほもたふとき

ちゃ屋にきて道をとふてもとりやらず内儀のつらは二八けんどん

かたみとも思う心のふでのあと心にかけるかんにんの二字

旅をして衆生のめしをくひつくせほとけがおにになるはひつじゃう(必定)

ものしりはいろいろさった(雑多)のごたくかなひとつもわれはわからざりけり

木喰もしを(塩)みそ(味噌)なしにくうかい(食うかい)(空海)のあじ(味)(「阿」字)の一字の修行なりけり

日月の中よりみゆるしゃばせかいよるともひるともわからざりけり

むりをすなむりもむほうもむかしよりむけんじごく(無問地獄)ぞなむあみだ仏

かろしめて自まん高まんするものはおのれの恥としらぬばかもの

まるまると丸くまるめるわが心まん丸丸く丸くまん丸

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arase

猪名川には30年以上住んでいて、人生の半分を超えました。 町内、これからも遊びまくりたいと思っています。