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最盛期の銀山

猪名川町では小学校から学校で学び、図書館へ行けば銀山顕彰会や教育委員会が調べた
色々な報告書が並び、町の学芸員が定期的に講演会も開催する銀山。
「最盛期の銀山ってどんなかんじだったんだろう」という想像を楽しく掻き立てるような
当時の暮らしや様相を垣間見える資料に、いながわベースは焦点を充ててみます。

以下の記事の要所は、銀山に生まれ育ち、小学校校長も務められた中元一三氏が
残された書籍「銀山今昔」(猪名川町図書館蔵)によるところが大きい。
下の写真(個人蔵)は猪名川町教育委員会に許可を得て掲載しています。

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1.最盛期とは

銀山最盛期(南蛮吹技法の普及後)は1660年頃と思われ、3000戸を数えるとあり、
昨今の平均4人家族と考えると、東の広根から西の長谷との境までの約3㎞の間に
1万人を超える住人がいたと考えられる。
しかしながら資料などによると住宅街だけではなく、
三田や篠山方面から大阪に抜ける街道筋でもあった銀山の町並みは、
1841年水野忠邦による天保の改革の当時でも、倹約令や風俗取締りで
質素な生活を強いられた一般農民の生活に比べるとかなりかけ離れ、
遊興施設やいろいろな商店が軒を連ね、さぞ大賑わいの町並みで派手な生活をしていたのだろう。

2.銀山を中心に町ができていく

また、多田源氏が出城を築き八代にわたり銀銅の産出を守護した城を中心とした銀山の地は、城下町の様相をたしかに呈している。
その理由として現在の地名に残る小字名からも各種商店もあったようで、身分的階層や職業別による住居区分もあり、
魚の棚町、呉服町、瀬戸物町、長者町、長屋町、風来町や風呂屋町などが残っている。
武士もたくさん住み、柵や土塀に囲まれ居住していたことが絵地図に残っている。

様々な商店、商人が行き交い、栄える銀山

また大坂口番所である現在の白金自治会へ続く螺旋階段辺りの裏山(多分現在の白金自治会辺り)に桃畑があって、
春には役人や鉱山関係者、出入りの商人などが盛大な花見会の酒宴を派手に行っていたのだろう。
その近くには四軒茶屋や芝居小屋、そのほか相撲の土俵も常設されているのが描かれている。
芝居や相撲も定期的に開催されていて賑わった町であったと本では考察している。
採掘の山で働く者に対しては、お触書で一般農民に許されなかった遊興や娯楽の特権の自由が与えられていたとのこと。

風呂屋町

地域の西方向には滝もあって、現在の三田市長谷方面からの滝口番所付近には風呂屋町という一角もあり、
正規の風呂屋もあったろうが、当時は湯女が常時十数人いて、遊郭的でもあったと想像される。
当時に日本の性的なおおらかさから考えて、湯屋の女性と鉱夫とが日々の苦楽を
お互いの慰労の思いで交わした男女関係も想像できて、二人にとっても大事なひと時だったと想像できる。

四軒茶屋

絵地図を見ると四軒茶屋の入り口に夫婦松が植わり、吉原などの遊郭では必ずと言ってよいほど柳が植えられていることに注目する。
共寝した男女の別れのシチュエーションとして各地と共通しているのではないかとも推測される。
時代劇などで柳の下で遊女が頬かむりの端を咥え、客を誘う姿など映像を見たことある方もいらっしゃるだろう。

相撲場

相撲場として常設の土俵を設けているということは、記念興行相撲や奉納相撲のような年に数回というのではなく、
寺社の本堂や山門などの造営・修復に要する費用を捻出するための勧進相撲などを定期的に開催していたのではないかと想定している。

芝居小屋

芝居小屋についても常設であったのは、各地から歌舞伎や講談師も来演し、かなりの回数上演されていたと思われる。
猪名川町全域をみても、長床(割拝殿)の舞台を持つ柏原や杉生の八坂神社から笹尾の春日神社や
島、木津、槻並、下阿古谷の素盞嗚神社など多くの農村地に常設の舞台があり、盛んに芝居を楽しむ地域性もある。

3.銀山で働く人たち

当時、鉱夫は職人として一流の技術と人格を持ち合わせ、それ以外の下働きとは違い、
相当な収入を得ていたようだが、鉱内の粉塵を吸い込み、ほぼ珪肺症(けいはいしょう)という職業病を患い短命であったようだ。
当時としてはこの地区そのものが浮世離れをしたテーマパークであったことだろうが、
それもこれも高給取りではありながらその短い生涯を精一杯楽しもうとした人間模様が悲しくも想像できる。

4.当時の様子を絵に再現

絵図や資料にはこれほどにもかつての記録が溢れている。
では、実際の風景や暮らしは具体的に想像できますか?アカデミックな口調でつづられた資料や絵から情景を浮かべることは少し難しい。
そこで、大阪芸術大学短期大学部のイラストコースをこの春に卒業された稲山すずさん(イラスト執筆時は第二学年に在籍)に
かつての銀山最盛期を絵にかき起こしてもらいました。

 

現在の様子

 

現在の金山彦神社へと向かう鳥居周辺を当時の様子で再現。
このあたりは呉服町という地名が絵地図にしめされており、上等な衣を買いに来る女性や、
仕事着として鉱夫が買い求めに来る布一枚な衣が用意されていたかもしれない。
石畳の道には子供たちがはしゃぎまわり、商人がせっせと品物を運ぶ姿も見える。
当時、ここまで幅の広い道はあまりなかったという。

 

 

 

アノ人も来ていた!

 

現在の金山彦神社の前を描いたもの。
正面に座るのはあのエレキテルを発明した平賀源内。
二枚目でキセルをもつ姿が有名な彼はかつて銀山町に訪れたという記録がある。
鉱山の仕組みについて口出しとアドバイスをしたとかしないとか。
現在はこの彼が座るあたりには横から大木が伸びてきており、
同じアングルに立ってみると時間の経過を感じる。

 

 

 

5.芸大生にインタビュー

稲山すずさんには、猪名川町に来てヒアリングしながら現在の地形と資料を照らし合わせ、
見事な再現イラストを作成していただきました。
どんな思いで描いてくれたのでしょうか。


今回の依頼があったときの気持ちを教えて下さい。

現代の風景を描くのではなく、想像して昔の銀山の風景を描いてほしいと言われた時は、
正直描けるか不安でした。銀山自体よく知らず、この土地にも詳しくなかったため、断ろうかとも思いました。
しかし、将来フリーのイラストレーターを目指しているので、知らないからといって諦めるのではなく、
自分のためにも苦手なことにも興味を持って、挑戦してみたいと思いました。

実際に銀山に来てみて感じたことはありますか?

教科書やネットで「銀山」というものがあることを知っているだけでしたが、実際行ってみると銀山の歴史に触れたような感覚でした。
鉱石が取れていた洞窟が現代まで残っていたり、一見普通の山道でも
「ここに何かあったかも」「こっちにはお店があったのかな」と想像しながら歩けてとても楽しかったです。

ラフ

 

聞き取りながら当時を再現するにあたって難しかったことはありますか?

在るものだけを描くのではなく、無いものも描くのはとても難しかったです。
「ここにはこれがあったかも」や、「実際あったかはわからない」状況で、
半分以上は想像するしかなかったため、昔の銀山のイメージを掴むのが難しかったです。
実際あったかどうかは分かりませんが、それらしく再現できていればいいなと思います。

 

特に力を入れたところはどこですか?

街並みのイメージには特に力を入れました。もともと、風景はあまり描いたことがなく、
パースペクティブが狂ってしまわないか、人物と建物の対比に違和感はないかなどと、考えながら描きました。


イラストを書くときにいつも気をつけていることはありますか?

銀山に対する知識が浅い分、私の勝手なイメージだけでは、
本当の銀山の様子とは異なってしまうため、
いきなり本番に行かず、いながわベースの皆様に指摘していただいたこと、
さまざまな資料を元に何度も下描きをしてから描くように気をつけていました。

 

書き終わったあとに銀山について思うことを教えてください。

昔の銀山の街並みがどういう様子だったか、実際に知ることはできませんが、
こうしてイラストを通して銀山の歴史に触れることができ、とても貴重な体験ができました。
私の描いたイラストで見た人が、銀山に少しでも興味を持っていただけたら嬉しいです。

6.参考

「銀山今昔」

主に参考にしたのは、銀山に生まれ銀山で育った、中元十三氏が遺された貴重な著書「銀山今昔」。
そこに書かれた、多田御家人から豊臣・徳川を経て昭和の日本鉱業までの
銀山町の住民の歴史や生活に至る考察は、想像するのにとても分かりやすい。

「柵内銀山町御用地略絵図」

銀山にある町の施設「悠久の館」に掲示されているレプリカの絵図、
1830年から1869年の間、銀山役人をしていた秋山良之助が19世紀中頃に
銀山最盛期の頃を想像して描いたと言われる絵図も良い資料となりました。

「国銅」

ほかに帚木蓬生著「国銅」には平安時代の奈良東大寺の大仏建立に際して、山口県の長登銅山の榧葉山が舞台であるが、
そこで働く人工の生活や労働状況を想像するにはリアリティが感じられる。

「日鑑」

また元・猪名川町史編纂に関わった清水在住の末松早苗さんが、
幕末の多田銀銅山最後の役人、秋山良之助の日記を現代語訳した「日鑑」によれば、
銀山町内に留まらず、現在の町内から山下、能勢、池田との争いや、銅生産量を大坂へ報告するなども書かれているのも
当時を偲ぶに格別な資料である。


その昔、この銀山には多くの坑夫が働き、代官所(役所)があり、魚屋、呉服屋、金物屋などの商店も並び栄えていた。
それらの商いをする人たちの家族やこどもたちもいたり、通りには大きな力士も闊歩していたとおもう。
さまざまな人が行き交い、お茶屋さんからはいい匂いが漂い、にぎやかな歓声も聞こえていたと想像できる。
目を閉じるとそんな情景が自然と浮かびあがってきませんでしょうか。

楽しい想像を膨らませながら銀山をゆっくり散策してみてください。

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PR企画事務所というデザイン事務所やってます。情報誌いながわベースの編集長デス(*^-^)ニコ