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特集
猪名川に於ける相撲
力士の石碑を探してみよう。
今回は、町内にいた力士についてのお話。
ある日、広根在住の知り合いとの会話で
最徳寺と広尾霊園に力士の石碑があると聞いた。
ご本人も、親や近所の方から聞いただけで詳細不明という。
早速、広尾霊園に現物を確認に行った。
まず立派な大きさに驚いたし、苗字が当用漢字ではなく、
草書で刻まれた名前など、欠けや苔カビで私の知識では半分は読めない。
また後日、最徳寺にも見に行ったのだが、そちらの石碑のほうは楷書で
苗字の字としてははっきりわかるのだが、漢字が読めない。
広尾霊園のものは、名版の大きさも高さ約1.75mx幅約90cmx奥行約35cmあり
手向台は巾1.2mx奥行55cm、高さ40cm。石種は多分御影石と思われるが
鉄分が染み込んで割れた面を表に利用したものと思われる。
最徳寺のものは、名版の大きさは44cm角で高さ63㎝
基壇は2段あり、一段目は95㎝角で高さ35㎝、二段目は65㎝角で高さ29㎝
手向台は巾55cm、奥行き30㎝、高さ55㎝、全高127cmある。石種は御影石。
特に広尾霊園の石碑の方に興味は釘付けとなり、とにかく読みたいと思った。
幾らか認識できるのだが、文字は右から戒名、俗名、建立年
何故か基壇の最上部には3文字の意味不明の文字。
知人の古文書に詳しい末松早苗さんに字の読み方を確かめると
帰真界光正覚居士
舟軍(舟偏に軍→イクサブネ)碌次良(ロクジロウ)
天保丁酉年(天保8年‐1837年)十二月十四日
イロハ つきや(or つまや)
(浄瑠璃太夫の屋号ではなかろうかとのこと)
最徳寺には三代目 舟軍(イクサブネ)太七(タヒチ)とある。
こちらは裏に元治四年とあるので1868年らしい。
また、広尾霊園で小さいながらもう一基見つけた。
俗名「いくさふね庄蔵」と書かれてある。
江戸時代に三名とも池田で力士として
「イクサブネ」の四股名を使っていたようだが
庄蔵と碌次良は十年、碌次良と太七は三十年の経過があり、
のちに知った猪名川町のHPでは
太七は力士を引退してから相撲勧進元をつとめ興行師として
猪名川町内の各所で相撲を興行したとの経歴も残っているようだ。
後半二名の石碑は一般的なものとは雰囲気が違い
当時の皆から尊敬の対象であったのだろうと
想像するに難しくない構えである。
既報の「いながわベース」2021年春号にある
銀山には常設の土俵があったという記録もあり、
猪名川町北部では神社にある向い拝殿を舞台や観客席として
本殿の前に集会も行える広い広場では土俵を設けられる。
勧進相撲も頻繁に行われ、庶民の楽しみとして
賑わっていたのではないかと想像する。
江戸・明治時代には川辺地域は相撲や浄瑠璃など
庶民の文化的な賑わいがあったのは確信できる。
町のHPには力士の石碑が町内には全部で23基あると記載ある。
私も今回そのリストに掲載のない2基を広根で見つけたのは
大いなる収穫であったがまだまだ他の現物を探せてはいない。
現在、以下に9基見つけたものを写真にあげるが
是非すべて探してみたいものだ。
皆さんも散歩がてら探しに歩いてみては如何だろうか。
場所と写真をいただければ再確認後、このページに追加したいと思っている。
その折には紹介いただいた方のお名前も掲載したいと思っている。
残念ながら何もお礼は出来ませんが・・・
<以下、地図の番号と重ねてご覧ください。>
② 舟軍碌次良(広根)(イクサブネロクジロウ) 天保八年
① 舟軍太七(広根) 元治四年
② いくさふね庄蔵 文化12年
④ 宝山藤兵衛(紫合)
常盤山門弟(宝山藤兵ヱ) 明治十四年
⑤ 一力治兵衛(下阿古谷)
常盤山門人(一力治兵ヱ) 明治七年
⑥ 鈴鹿山藤七(下阿古谷)
常盤山門人(四代目) 大正六年
⑦ 鈴鹿山清兵衛(上阿古谷)
常盤山門弟 天保十五年 四月十六日
⑧ 浅木山仲蔵(上阿古谷) 明治二年
⑨ 神楽山勇蔵(万善) 嘉永二年
arase
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