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明智光秀の娘 佐保姫伝説を追う #2

明智光秀の娘 佐保姫伝説を追う#2

~三蔵山城編~

猪名川町に伝わる明智光秀の娘、佐保姫の伝説。伝説の詳細は、いながわベース2020春号で紹介しましたが、我々は、さらに調査を進めるべく、佐保姫が居を構えたと伝わる猪名川町木津の三蔵山城を調査しました。

三蔵山 地元の人は右を高三蔵山 左を低三蔵山という

三蔵山

三蔵山は、猪名川町中部の木津地区からお隣の宝塚市にまたがり、木津地区からは、標高411メートルの三蔵山とその隣の標高373メートルの山の2つの山を臨むことができます。地元では、高三蔵(411メートル)と低三蔵(373メートル)と呼ばれ親しまれてきました。その位置関係から三蔵山城は、一城二郭(主郭が2つある)の構造ではなかったのかということが想像できます。

今回我々は、「明智光秀の城郭と合戦」や「織豊系陣城事典」などの著書で知られる山城研究家の髙橋成計氏同行のもと調査を行いました。

山城研究家の髙橋成計氏(左)同行のもと調査を行う

3月下旬、我々は楊津小学校のすぐ南、木津地区の林道を進み、三蔵山城にアタックを開始しました。道なき道を進むため、Googleで斜度と現在地を確認し、途中、猪のヌタ場(泥浴び場)や、春を感じる町の花つつじなどを見ながら、クロモジの匂いも感じつつ、ナタ等で道を切り開き、急峻な岩場も登りながら、慎重に登城を進めました。

登城開始から約1時間。人工的に石が積まれ、明らかな堀跡がわかる山頂付近に到達しました。髙橋氏によるとその堀は、わざと曲げられ敵の侵入を防ぐ構造の「曲がり堀」という構造で、ここで敵を食い止めることを意識したものだそうです。

高三蔵山山頂にある三蔵山城の様子

さらに登り、いよいよ山頂に到着。山頂付近は、直径約40メートルと20メートルの楕円形の廓(くるわ)で、かなりの広さを感じます。三蔵山城は、ここを主郭とした構造となっています。東斜面には、大がかりな堀や数か所に廓が目視でき、さらに人口的におかれたであろう2つの巨石があります。

髙橋氏によると、この巨石は門の役割があったのではとのことでした。北斜面には、敵の侵入をさらに難しくする二重堀があり、こちらにも主郭ほどではないものの、大きな廓がありました。

高三蔵から低三蔵

我々はさらに調査を進めるべく、尾根づたいに低三蔵に向かいました。その道中、猪名川町木津地区から万善地区(道の駅周辺)付近を一望できる場所にある石を発見。見張りの役割と同時に祈りの場所など宗教的な要素もあったことも想像できます。高三蔵から出発から約20分、低三蔵山頂に到着。

ここも広い平地になっており、屋敷などがあったのではと想像できますが、髙橋氏によると人工的な廓かどうかは、即断できないとのことでした。しかし、ここからも猪名川町木津地区付近を臨むことができ、高三蔵と連携してしたのではと思われます。

まとめ

今回の調査では、ここに佐保姫が存在していたという確証は得られませんでした。しかしながら髙橋氏によると、この城郭のつくりからして、南北朝時代から戦国時代にかけ、時代時代の支配者にとって、ここ三蔵山が交通の要所として重要視されていたことは確かであり、それは当然織田政権の時代も含まれ、明智光秀が関わっていたことは十分考えられるとのことでした。

我々調査団にとって印象に残ったのは、髙橋氏の「ええ廓や~」という言葉です。素人目でもわかる次々と現れる廓を前に、我々も疲れが吹っ飛ぶほど興奮を抑えられませんでした。

次回予告

佐保姫は存在したのか。猪名川町に残る悲恋の物語は真実なのか。次回は、佐保姫が身を投げた悲恋の舞台「姫ヶ淵」を調査します。ご期待ください。

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PR企画事務所というデザイン事務所やってます。情報誌いながわベースの編集長デス(*^-^)ニコ

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